「少女漫画に出てくるような恋がしたい」って
君は踊った 僕はちょっと引いてしまった
と
タイトルはリコチェットマイガールの「目をみて話せたら」から。
結成当初からめちゃくちゃ好きで、稲荷さんとお友達の井沢さんと高3の夏になぜか日暮里のマックに行った。井沢さんには「銀杏厨か~!」と言われた。懐かしいな。
本日は外来でした。6時半ごろ家を出て、17時過ぎに帰ってきました。
移植審議の結果「再移植には不適」と診断されました。
私は1度目の移植が終わった時から「もしもまた再発したら、もう移植は受けたくない」と思っていたし、伝えていたから特に取り乱したりはしませんでした。
病室で首を括ったのがバレた時点で、もう再移植は無理だろうと思っていたし。
どんな原因があろうとも、最後に行動したのは自分自身だから。
私の以外の誰のせいでもないのはわかっています。
主治医や担当医、その他の移植審議にかかわってくださった人たちが、何度も何度も考えて出してくれた答えです。受け止めます。
自殺を図ってしまったので、再び移植審議にかけることを知らされたとき、主治医と約束をしました。「決して自分で自分の命を終わらせない」と、指切りをしました。
それから私は退院するときに、主治医に「移植審議の結果がどうであれ、私は何かを恨んだり憎んだりすることはありません。」と自分の口から伝えました。
自殺を図ったのは私だし、自殺を途中でやめたのも自分です。
高校の時の生物の先生が、SSHの集まりでの帰り道に「多分、今まで色んなことがあって『あの時に違う選択をしていたら』とか考えることもあると思う。でも、今までの選択の結果、今の自分がいるんだよ。だから今まで選んできた道は、何ひとつ間違いなんかではないんだよ。」と言ってくれました、その通りだと思います。
自分の人生を進められるのは結局自分だけだから、アドバイスをされたとしても自分でしか自分の人生は進めないから。
首を吊った結果、3連休で両親が交互に同じ部屋に泊まりました。
2人きりで話す時間なんて今までなかったから、今まで思っていたこと考えていたことを頑張って伝えました。
私は色んな思い出を忘れることがとても下手です。
多分、良いことだけ覚えていられたら親のことは大好きだったと思うし、悪いことだけ覚えていたら、親のことが大嫌いだったと思います。
殴られたな、蹴られたな、髪の毛を伸ばすことも禁止されていたな、携帯も買ってもらえなかったし、話も聞いてくれなかったな、怖かったな、毎晩泣いて泣いて、泣き疲れて眠りに落ちていたな、でも、毎日ご飯やお弁当をつくってくれたな、旅行にも連れて行ってくれたな、花の名前を教えてくれたな、運動会は毎年見に来てくれたな、誕生日ケーキもかってくれたな。
良いことも悪いことも、全部じゃないけれど覚えている。
だから気持ちがグチャグチャになって、苦しくなってしまう。悲しくなってしまう。
移植は受けられないけれど、もう白血病の根治は望めないけれど、幸運なことにベスポンサは遺伝子レベルで効いている。
移植はしないから、ベスポンサによる重篤な肝機能障害も現れる可能性は低い。
なにより、いきなり死んでしまうより、徐々に確実に死に向かうから、みんなといろいろな思い出が作れる。GVHDもだいぶ良くなったから、体もだいぶ楽になった。
よかった。
長くなったので、今日はこの辺で。
読んでくださった方、ありがとうございます。
なかなかに運が悪いと思っていたけど、そんなこともないかもしれない。
私は全然不幸じゃないよ。
おわり